遥か昔の山行に寄せて
〜1975年6月,丹沢・桧洞丸山行〜

 

あれは今を遡ること四半世紀。1975年6月初旬の梅雨入りした時期のことである。僕の年齢はまだ10に達していなかった。

その日,僕はおそらく20人程度の仲間とともに,青年のリーダーに引率されて,丹沢の山懐へ初めて分け入ったのであった。新松田駅からバスで登っていったのを憶えている。途中で展望の利く一帯を通ったが,これは今思えば,建設中の三保ダムであった。やがて,山奥へ入って林道でバスを下りた。雨が降り続いている中,川沿いの道が続き,時には岩をぶち抜いたトンネルを通ったりして,うんざりするほど歩いた末に辿り着いた宿の名前はわすれていない。ユーシンロッジであった。

夏至が近い時期だったのだろう。雨が降っていたとはいえ,日の暮れるのが遅かったせいか,夕食までの間,ロッジの裏手の河原で遊んだ。川には吊り橋が架かっていて,わけもなく行ったり来たりして遊んでいたのを憶えている。実はその吊り橋は,それから半年と経たないうちに落ちてしまった。人が死んだようなことをニュースで放送していた気がする。そのときのショックは今でも忘れていない。なにしろ,自分が渡った橋だから。

夕食をとると間もなく,僕たちは寝入ってしまった。
翌朝も雨だった。かなり早めの出発だった。眠気覚めやらぬ中,リーダーの「高さ1500mで丹沢一高い山に登るぞ」という掛け声と,”ヒノキボラ”という名前が耳に残っている。吊り橋を渡って,登り始めた。橋の下を流れる川は,心なしか荒々しく,水かさが増していたようだ。水色に泡立っていたような記憶もある。

いつしか,斜面を登っていた。右側に谷を挟んでとなりの尾根が霞んでいた。どこまでもどこまでも永遠に続く上り坂は,10に満たない身体には過酷なほどであった。幾度となくリーダーに休みを求めた。多分,僕は集団の後ろの方にいて,遅れそうになりながら必死でついていたのだろう。
道は確実に高度を上げていた。やがて,森の中に入る。鬱蒼とした森の中,霧が漂う。ふと見上げるとツツジが咲いていた。実家の庭に咲くツツジが4月下旬であることを知っていた僕は,これが高さ1500mの季節なのかと実感した。傾斜がゆるくなってくると足元が不思議な草に埋め尽くされていた。フキの葉だと思った。たぶんそうだろう。何故か,「こんなにでっかい葉を持って帰ったら,母はさぞかし美味しい佃煮を作ってくれるに違いない」と思い込んでしまい,夢中になって葉を引っこ抜いていたら,リーダーに注意された。

あたりはますます暗くなっていた。他に登山者はほとんどいなかったに違いない。やがて上り坂は終わって,平らな道を歩いているとやがて山頂についた。そのことを憶えていない。「ここが山頂だ」といわれたのだろうけど,山頂だという気はしなかった。今までのハイキングだと,山頂は展望が利く場所のはずだったから。でも,1500mというとてつもない高度まで登ったんだという,充実感はほんの少しあったことだろう。
それにしても,薄暗く寂しい山の中。雨は木の葉を伝って,しずくとなって落ちてくる。この鬱蒼とした森こそが,丹沢でいや,神奈川県下で名高いブナ林であった。それを知る由もない。ただ,本当にひたすら鬱蒼としていた。

山を下りることになった。下りのコースはツツジが咲き乱れていた。背丈よりもはるかに高い,大きな大きなツツジがいっぱい咲いている中,ただ,リーダーの導くままに下り続けた。下り坂のつらさは記憶にない。膝の関節が他人よりも柔軟だった僕にとっては,今と違って全く苦にならなかったのだろう。相当な下り坂だというのに・・・。やがて山を下りて,車道に出た。雨が止んで,雲が切れて,日の光が射し込んできた。バス停に辿り着いた。「西丹沢」という文字が読み取れた。一泊の山行は,ここで終わったのであった。

その後の少年時代,そして学生時代。山登りとは無縁に過ごした。山登りが趣味の友人の話を聞いても,
「重いリュック背負って,大変だな・・・」
としか考えられなかった日々。おそらく,丹沢での体験は,充実感よりも苦しさを僕に植え付けたのだろう。
しかし,偶然にも僕は山登りを趣味とする機会を得た。あちこちの山に登り始めた僕が,過去にその小さな身体で踏んだ頂を再訪したいと思うのは不思議なことではない。

あのとき,ひたすら鬱蒼としていた桧洞丸の山頂。そこを再び訪れたのは21年後のこと。なんとなく明るかった。天候のせい?登山者がやたら多いせい?僕の背丈が高くなったせい?それだけではないのだろう。所々に立ち枯れたブナの大木があって,その場所からは空が望めた。森林全体が色褪せて見えた。あの頃の,”薄暗くも輝いていた”姿を取り戻すのは,いったいいつになることだろう。

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